院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。

前回までのストーリーPart7はこちら

⬇️⬇️⬇️

坂元台整骨院(鹿児島市)院長のバックストーリーPart7

院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。 前回までのストーリーPart6はこちら ⬇️⬇️⬇️ 2-3 新天地での修行。そして私を襲…

2-4 過労による貧血で倒れながらも、修行と両立して掴み取った柔道整復師の国家資格

あっという間に専門学校も3年生になりました。私の通っていた専門学校は、卒業試験をパスするために厳しい基準点が設けられている学校でした。合格率は非常に高い学校でしたが、一定基準の点数に達しない学生は卒業試験で不合格となり、国家試験そのものを受験させてもらえないシステムでした。

また、頻繁に定期試験があり、そこで基準点に満たない場合は、アルバイトなどもすぐに辞めさせられ、朝から晩まで学校で補講を受けなければならない決まりになっていました。

私が一番気にしていたのは、整骨院での修行を辞めさせられないようにすることでした。
3年間みっちり修行しながら免許を取るために、わざわざ福岡まで出てきたのに、修行を辞めさせられてしまっては意味がありません。ですので、定期試験で基準点を下回らないように、整骨院での修行と並行して国家試験に向けた勉強をコツコツと続けました。

しかし、朝から夕方まで整骨院で修行をしながら定期試験をクリアし、さらに毎日の勉強の合間に手技の練習も続ける生活は、多忙を極めました。

入学してから一度も「テスト休み」というものはありませんでした。3年生になるとテスト範囲も全範囲から出題されるようになり、「テスト休みが欲しいなぁ」と思いながら、定期試験の1週間前からは毎回、睡眠時間を3時間ほどまで削って勉強していました。寝不足で常に体がだるく、目の下にはクマができている状態でした。患者さんから「先生、体調大丈夫ですか?」と逆に心配されることもありました。

そのため、定期試験が終わった日だけは、自宅に帰るとそのまま朝まで死んだように眠っていました。

この頃、ちょうど地元の同級生の結婚式があり、招待していただいたので参加しました。同級生同士の会話では、仕事で出世している友人の話や、結婚して家庭を持ち、子どもにも恵まれて充実した生活を送っている友人の話題で盛り上がっていました。

そんな中、「そういえばお前、福岡に行ってからやつれて一気に老けた感じがするけど大丈夫か?」と心配されましたが、「そうかな?俺もおっさんだから仕方ないでしょ」と言って話題を変えました。「現在33歳、整骨院でアルバイト。家賃18,000円のボロボロのアパートで、とても貧しい生活をしています」などとは、友人の結婚式というおめでたい席ではとても言えませんでした。とても惨めな気持ちになりました。

そして翌日からまた整骨院と学校があるため、楽しそうにしている同級生を横目に、二次会にも参加せず帰ることになりました。新幹線で帰れば二次会にも出られたのですが、そのようなお金もありません。少しでも安い高速バスに乗って、福岡へ戻りました。

定期的にある試験もなんとかクリアし、整骨院を辞めさせられることもなく、卒業試験直前までこぎつけました。毎日の疲労は蓄積し、非常につらい状況でしたが、気力で乗り切りました。

以前のバイク事故をきっかけに移動手段を自転車に切り替えていたのですが、ある日、自転車を漕いでいると急に頭がくらっとして気分が悪くなり、そのまま自転車ごと転倒してしまいました。

「大丈夫ですか?」と通りすがりの方に声をかけられ、ハッと気がつきました。どうやら一瞬、意識を失っていたようでした。その場でしばらく動けませんでしたが、時間が経つと気分の悪さは治まりました。

「今のは何だったんだ?」
大事な時期でもあり、とても不安になったため、病院へ行くことにしました。

検査と診察の結果、医師から「おそらく過労による貧血でしょう」と言われました。「栄養や睡眠が不足しているようですし、過労とストレスで胃も荒れているようなので気をつけてください」と忠告を受けました。

「自分もだんだん無理がきかない体になってきたのかな」と思いつつも、「とにかく国家試験までは持ちこたえてくれ」と祈るような気持ちでした。

12月、専門学校の卒業試験の日を迎えました。ここをクリアしなければ国家試験を受験できません。非常に重要な試験です。緊張しながらも無事に解き終え、あとは学校からの発表を待つのみとなりました。

発表当日。クラスごとに担任の先生が来て、名前を呼ばれた人が卒業試験不合格という形式でした。こわばった表情で担任の先生が教室に入ってこられ、クラス全体に緊張が走りました。

全員合格を祈っていましたが、結果的に30人ほどいた夜間クラスで6名の名前が呼ばれてしまいました。私の名前は呼ばれずホッとしましたが、仲の良かった同期の名前も呼ばれてしまい、複雑な心境でした。

担任の先生は声を震わせながら、「俺もつらいよ。名前なんて呼びたくなかった。もうこんなつらい思いはしたくないから、みんな……頑張ってくれよな!」と言い、その場で泣き崩れてしまいました。その姿を見て、私も思わず涙があふれました。まさか専門学校で、ここまで苦しい思いをするとは想像もしていませんでした。

翌日から気持ちを切り替え、整骨院での修行を続けながら、3月の国家試験に向けた準備を進めました。年末年始の友人からの飲み会の誘いもすべて断り、勉強に費やしました。

除夜の鐘を聞きながら勉強するのも、今回で終わりにしたい。そう歯を食いしばりました。年末年始は整骨院も休診だったため、朝から晩まで10時間以上、勉強に打ち込みました。

移動時間には覚えたい内容をカセットテープに吹き込み、それを聞きながら移動しました。食事中も参考書を読みながら食べていました。整骨院での修行と睡眠時間以外は、すべて勉強に費やしていました。

苦しい思いをしたサラリーマン時代の再来のようでした。しかし、あの経験があったからこそ、隙間時間を勉強で埋める生活にも慣れていたのだと思います。

その甲斐あってか、年明けから毎週のように行われた国家試験前の模擬試験では、160名ほどいた校内順位で一桁台に入ることも増え、少しずつ自信がついていきました。

国家試験当日。遠距離恋愛中だった鹿児島にいる彼女(現在の妻)が、試験のためにと作ってくれた手作りの合格祈願のお守りをポケットに忍ばせ、試験会場へ向かいました。

会場に着くと、サラリーマン時代に国家試験に落ち続けた嫌な記憶が蘇りそうになりました。深呼吸をして、お守りをぎゅっと握りしめ、気持ちを落ち着かせました。

どれだけ模擬試験で成績優秀者として名前が出ていても、本試験に落ちた経験のある自分にとって油断は禁物でした。ここを乗り越えることで、過去の自分に打ち勝てると信じていました。

この国家試験は、まさに自分との戦いでした。

「自分に勝てなければ、勝てるものも勝てない。サラリーマン時代、5年間すべてを捧げて挑んだあの勝負は、最後は自分に負けてしまった。つらすぎて深夜まで悔し涙を流し続けたあの日から、気づけば3年半。でも、あの時の自分よりも成長しているはずだ。全力で走り続けてきたじゃないか。もうこれで終わりにしよう」

さまざまな思いが交錯する中、不思議と今までになく心が落ち着いていました。

落ち着いた気持ちのまま国家試験を終えることができました。試験後、学校の生徒は集められ、問題用紙を見ながら自分の回答を学校が用意したマークシートに転記して解散となりました。

帰宅後、恐る恐る自己採点をしました。合格を確信できました。

このときは、嬉しいというよりも、過去のつらいしがらみからようやく解放されたような、言葉にしがたい気持ちでした。

とにもかくにも、「これから柔道整復師として仕事をしていけるんだ」という新たな決意を胸に、私の治療家人生が始まったのです。

この時の経験が、どんなにつらい出来事や試練が訪れようとも真正面から向き合い、問題解決していく整骨院を形作っていくことになるとは、この時はまだ思いもしていませんでした。

院長のバックストーリーPart9に続く

(監修 柔道整復師 児玉寛武)