
院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。
飴と鞭の教育を受けながら、田舎でのびのびと育った少年時代
私は鹿児島市(当時は鹿児島郡)の吉田町というのどかな田舎町に生まれ育ちました。
父と母、2歳年下の弟の4人家族です。
同じ敷地に曽祖母と祖父の住まいもあり、毎日顔をあわせていました。ですので、両親共働きでしたが寂しい思いをしたことはありませんでした。
当時、まだ保育園に通っていた頃、家族で食卓を囲むのはいつも楽しみでした。
曽祖母や祖父もいつも一緒に食卓を囲んでいましたので、賑やかでした。
しかし、たびたび食事のマナーをこの時はしつけで厳しく注意されていた時期でもありました。
お箸の握り方や、正座して食べること、ご飯一粒でも残っていると残さないように注意されました。
ある日、茶碗についだご飯にお箸を刺して立てて放置していたことがありました。その時すごい剣幕で父に叱られて泣いてしまいました。その後、母が優しくフォローしてくれましたが、二度とそれからご飯にお箸を刺すことはありませんでした。
この頃に住んでいた地域は本当にすごい田舎に住んでいましたので、近くに友達の家もなく、虫を捕まえたり、飼っていた牛や鶏に餌やりをしたり、卵や作物の収穫のお手伝いをよくしていました。特に、牛には毎日餌やりをしていくうちに愛着が湧き、大好きでした。この時は肉用牛を出荷するために育てているとは知る由もなく。
ある日、牛を出荷する日が訪れました。この時初めて、これからどうなるのか事情を父や祖父から聞かされて私は激しく抵抗しました。しかし、驚くべきことに牛たちは自分たちがこれからどうなるのかを、ちゃんと分かっているようでした。牛たちは本当に幼い私を見ながら涙を流していたのです。父から「牛たちもちゃんとこのことは理解しているんだよ」と伝えられ、悲しくつらいお別れをすることになりました。そして、なぜ父から食事のマナーや食べ残しにも厳しく躾けられているのか、この時理解できた時でした。
5際の秋、父と森林の伐採について行った時に、倒れた木が私の足にぶつかって凄く激しい痛みが走りました。父に「足が痛い」と言うと父は「歩いて家に帰って休んどいて」と言いました。本当に歩けないほどの痛みでしたので「歩けない」と父に言うと、「んー、しょうがないなぁ」と、しぶしぶおんぶして家まで運んでくれました。
翌日になっても歩くことのできない痛みが続いていたので、親に連れられて病院を受診しました。すると足を骨折していることが判明して入院することになりました。
当時、足を吊った状態で約1ヶ月の入院はとてつもなく長く感じました。トイレにも行けないのでベッド上で済ませなければ行けませんでしたし、何より退屈でした。
ようやく退院できる日がきた時は嬉しくて仕方がありませんでした。しかし、ここからのリハビリが大変だったのです。
骨折用の固定具を外した時、もともと細かった足がさらに細くなっていて自分の足ではないような感覚がしました。
歩いてみてと言われても、骨折した時の痛みの恐怖と足への力の入りづらさで思うように歩けませんでした。
約1ヶ月も寝たきりで足を吊っていたので筋力の低下もかなりしていたと思います。
「頑張れ!」と応援をもらいながらチャレンジするも、よろけて何度もこけてしまいます。まわりで普通に歩いている人たちを見ていると、途中から何だか情けない気持ちになってきました。
「歩くってこんなに難しかったっけ?」骨折する前まではあんなに普通に走り回っていたのに。情けなさと、悔しさが込み上げてきました。
しかし、転んでは起き上がりを繰り返しているうちに、実は足は普通に地面についても痛くないことが分かりだすと、だんだん歩けるようになってきました。「よかった、ちゃんと歩ける。」と安堵感でいっぱいになりました。この経験を通じて健康でいられることのありがたみを実感したのでした。
6際の頃、両親は共働きで日中家にはいないので、その時はよく農業を営んでいる祖父と行動を共にしていました。ですので、農家の仕事のお手伝いもよくしていました。きのこ、柿、キウイ、スイカ、お茶、とうもろこし、お米、栗、各種野菜たくさんの作物の収穫のお手伝いをしたり、お風呂を沸かすための薪割りなどやる事が毎日たくさんありました。
祖父は養鶏場で鶏も約32000羽ほど飼育していたので、そのお手伝いも大好きでよくしてました。
鶏の朝はとても早いです。ですので朝はいつも6時には祖父に叩き起こされて、まだ眠たい瞼をこすりながら鶏の飼育を手伝っていました。
最初は鶏なんて…と思っていましたが、ひよこの頃から面倒を見ていると、どんどん愛着が湧いてきて鶏の飼育に没頭するようになりました。日に日に成長していく鶏たちの姿を見守りながら。
保育園で一緒だった友達はテレビゲームやラジコン、プラモデルなどで遊んでいたにもかかわらず、私は毎朝早朝に叩き起こされてお手伝いの日々。そして夕方は早めに帰宅して鶏や牛の世話、お風呂を沸かすための薪の準備などしていました。
こんな生活を子どもながらに余儀なくされていましたが、当時は時間を忘れて遊んでいる友達が本当に羨ましかったです。
そんなある日、事件が起きます。その日も祖父と一緒に養鶏場に同行しましたが、すぐに祖父の様子が変わりました。
「じいちゃん、どうしたの?」と声をかけると、「鶏がやられているかもしれん」と言い、急いで養鶏場の中へ入りました。中に入った瞬間思わず「えっ」と言ったきり言葉が出ませんでした。たくさんの鶏の死骸が横たわっていたのです。「イタチにやられた」とその時祖父は怒りの混ざった元気のない声で私に言いました。
厳重に入れないように対策はしていたのですが、建物の横のわずかな隙間から侵入したようでした。
ひよこの時から愛情たっぷり注ぎながら育てていた鶏のたくさんの死骸を、祖父と一緒に死骸置き場に捨てにいくのはとてもつらい経験でした。
そしてこの時、動物は弱肉強食の世界で生きているということ、食物連鎖というものがあることを祖父に教わりました。
現実の世界の厳しさを目の当たりにしましたので理解はできましたが、当時は感情が追いつかずにただただ辛く悲しかった出来事となりました。
そしてしばらくして、またひよこから鶏を祖父と一緒に育て始めることになるのです。
院長のバックストーリーPart2に続く
⬇️⬇️⬇️
(監修 柔道整復師 児玉寛武)


