院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。

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坂元台整骨院(鹿児島市)院長のバックストーリーPart4

院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。 前回までのストーリーPart3はこちら ⬇️⬇️⬇️ 1章 荒波に立ち向かう決意をした青…

2章 いばらの道を突き進んだ福岡修行時代

2-1 脱サラして柔整学校に入学。30歳にして整骨院での修行の日々がはじまる。

治療家の道に進むことを決意し、まずは柔道整復師の専門学校探しからはじめました。治療家の仕事は無資格でも整体院などで開業ができてしまいます。実際に数週間、数ヶ月程度の技術セミナーを受講しただけで開業してしまっている無資格者も数多くいるのが現状です。しかし、人の身体を触る仕事です。最低でも人の身体を施術することを国が認めた国家資格は取っておくのが筋であると思っていましたし、鍼灸師で治療院を開業している私の父も「国家資格だけは取っておいた方がいい」とアドバイスをしてくれました。

柔道整復師は国家資格で、厚生労働省が定める「必要な授業時間・実習時間」を満たす必要があり、最低でも3年間は学校に通い、必要な単位を取る必要があります。そして、卒業試験をクリアできたら国家試験の受験資格が得られる仕組みになっています。

ですので、国家資格取得のための専門学校探しからはじめたわけですが、地元鹿児島の専門学校の概要を見ましたが、どれも全日制で日中にみっちり授業があるカリキュラムでした。

「新卒の学生ならそれでもいいけど、自分は30歳過ぎているから時間も限られている。現場でみっちり修行しながら学校に通いたい」その思いがとても強かったです。整骨院で修行しながら学校に3年間通うのと、学校を卒業してから整骨院で修行をはじめるのとでは、だいぶ開業までの道のりが変わってくると考えていました。そのため、夜間学部のある専門学校に行きたいと思っていたのです。

しばらく検討した結果、「鹿児島では自分の思い描いているような整骨院での修行と学校を両立させた生活が送れないだろう。鹿児島で夢を追うのは諦めるしかない」と、最初の専門学校探しで壁にぶつかってしまいました。そこから悩み抜いた末に、他府県の専門学校も視野に入れて学校探しをはじめることにしたのです。

専門学校を探しはじめた時期が悪かったこともあり、すでに募集を締め切っているところも多く、次第にあせってきました。「30歳過ぎた年齢で、専門学校の入学をもう一年待つのは痛すぎる。なんとしても夜間学部でまだ募集している専門学校を探さないと」と必死になっていろんな専門学校に問い合わせをして、ようやく福岡にある専門学校を受験することになりました。

専門学校の入学試験は作文と面接でした。これで入学できなかったら、他にもう募集しているところもなさそうだし、いよいよやばいぞと思っていましたが、後日、無事に合格の通知と入学のご案内が届きましたので安心しました。この時すでに2月。急いで引っ越し先の手配や入学準備を仕事が休みの日に進めて、なんとか4月の入学に間に合わせることができました。

4月の入学式が終わり、いよいよ福岡での生活が本格的にスタートすることになりました。
そんなに多くの貯金があるわけでもありませんでしたし、奨学金も借りながらの生活でしたので、家賃18000円のボロボロのアパートに住みながらの生活です。整骨院の修行と学校の生活で、どうせあまり家にいることはないであろうと想定していましたので、家は寝ることさえできればいいと思っていました。完全にコスパ重視で部屋を決めたのでした。

そして、さっそく働かせていただける整骨院探しをはじめました。ところが、思っていたより整骨院の求人があまり出ていませんでした。あっても遠方の整骨院で、通える距離ではありません。とりあえず探し続けるしかないと思い、学校に来ている求人案内や求人情報誌のチェック、ハローワーク通いと続けました。

なかなか条件の合う整骨院が見当たらず、焦りも出てきました。年齢的なこともあり、「少しでも早く整骨院での修行をはじめないと」という気持ちが強くありました。そして5月中旬になり、ようやく条件の合う整骨院の求人を見つけて面接を受けることになりました。「時給700円、経験者優遇」そのように求人票には書いてありましたが、未経験の私でもとりあえず面接しましょうということで、面接していただきました。

後日、電話連絡があり、「未経験ということですので、5月いっぱいは無給で、6月以降は当面月給5万円になりますけど、それでもよろしければ来てください」と言われ、「働かせてください」と即答しました。サラリーマン時代の給料に比べるとかなり少ないですし、もちろんボーナスはなし、社会保険もなしで、たとえ家賃18000円のアパート暮らしでも生活が苦しくなるのは必至の待遇です。しかし、それでもとにかく経験を早く積みたかったので、生活が苦しかろうがやるしかないと思っていました。

そしてそこから、維持費のかかるマイカーを手放し、食事は自炊にして、できる限りお金を切り詰めた生活にシフトしていきました。30歳過ぎてからこんなにひもじい生活を送るとは、つい数ヶ月前までは思ってもいませんでした。

この年にあった同窓会に出席した際には、「30歳過ぎてブラックアルバイトかよ!」と馬鹿にされることもありましたし、結婚して家庭を支えている友人や同級生を見て羨ましく思うこともありました。楽しい同窓会になると思って参加しましたが、なんだかみじめな気持ちになってしまい、心から楽しめるような場にはなりませんでした。

タクシーで帰宅する余裕もなかったので、同期が楽しそうにしている姿を横目に早めにバスで帰宅しました。日頃の疲労がこの時どっと押し寄せ、いつの間にかバスの中で気を失うように寝ていました。そして、バスの終点で運転手の方が起こしてくれるまで寝てしまい、恥ずかしい思いをし、ご迷惑をかけてしまいました。このようなみじめな思いは当時たくさんしました。でも、これはすべて自分で決断して決めたこと。悔しい思いもしながら歯を食いしばって生活していく日々が続くことになるのです。

5月中旬になり、いよいよ整骨院初出勤の日を迎えました。とても緊張していたことを思い出します。「おはようございます!本日からお世話になります、児玉寛武と申します。まだ不慣れな点も多いですが、早く仕事を覚えられるよう努力します。どうぞよろしくお願いいたします」一通り挨拶を終えてから、整骨院での仕事を覚えるための新人教育がはじまりました。仕事を教えてくださるのは、私より10歳ほど年下の男性スタッフでした。歳は私よりだいぶ下ですが、この仕事のキャリアは私より上です。白帯の気持ちで先輩から仕事を学びはじめました。

まずはじめに、院の掃除を徹底的に教えられました。その後、受付まわりの業務や電気治療器の取り付け、取り外し、ベッドメイクなどの補助的業務を学び、昼休みや空いた時間にマッサージの練習をするということでした。今思い返すと、最初に教えられた「掃除を徹底すること」は本当に大事なことで、現在もとても大切にしていることですので、仕事を教えていただいた先輩には感謝しています。

あっという間に5月が終わり、6月になりました。この整骨院は平日に一日定休日があり、土日も朝から夜遅くまで営業していたので、経験を積むという意味ではもってこいの職場でした。学校は土日は休みですので、一日中整骨院で働けるわけです。ですので当時、私にお休みの日というものはほぼありませんでしたし、なくていいと思っていました。

整骨院の補助的な業務も少し慣れてきた頃の日曜日、すごく患者さんが来院されて忙しい時がありました。施術などまだ入れない私は、来院された患者さんのご案内・誘導をするわけですが、とても混雑しており、スムーズにご案内・誘導できない場面がありました。

その日の業務終了後、「おい新人、こっちに来い!」と院長に呼ばれてこっぴどく叱られました。「なんだ?あの誘導のやり方は?お前は面接で患者さんのためにって言葉を出してたけど、患者さんのことを心から思ってないだろ!」すごい剣幕で怒鳴られてしまい、そして深く反省しました。

その後、院長から「お前はしばらくマッサージの練習はしなくていい」と告げられて相当へこみました。少しでも早く一人前になりたいのに、手技の練習をさせてもらえないのは、当時の私にとって本当に苦痛でした。でも、まずは今している整骨院の業務が完璧にできなければ先はないと思い、それから1ヶ月ほどはがむしゃらに業務をまっとうし続けました。その後しばらくして院長から「マッサージの練習はじめていいぞ」というお言葉を頂戴し、手技の練習にも取り組めるようになったのです。

「まずはマッサージに耐えられる指をつくれ」と言われて、毎日毎日練習で指圧しまくっていたせいで、親指の炎症がひどく、痛みに耐える日々でした。毎晩帰宅すると指をアイシングしていました。「マッサージに耐えられる指が出来上がる前に、自分の指が壊れてしまうのではないか?」と本気でこの時は思っていました。それくらい指の痛みがつらかったのです。

毎朝一番に整骨院に出勤して、院の掃除を徹底して行い、夕方まで整骨院の業務と合間でマッサージの練習、夕方ギリギリまで働いた後、急いで自転車をこいで学校に向かいました。学校が終わったら急いで帰宅して、その日に学校で学んだことの復習や整骨院で学んだ技術的なことの復習に深夜まで取り組んでいました。

このような生活を続けていたせいで、よく目の下にくまができたり、まぶたのけいれんや目が充血したり、貧血を起こしかけてしまうこともありました。口の中は栄養不足や不規則な生活のせいで、よく口内炎もできていました。正直、つらい日々ではありましたが、必ず父のような一人前の治療家になると決意していましたので、頑張り抜きました。

この時の経験が、「患者さんのことを心から想い、行動する」という院の方針をかたち作っていくなんて、思いもしませんでした。

院長のバックストーリーPart6に続く

(監修 柔道整復師 児玉寛武)