院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。

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坂元台整骨院(鹿児島市)院長のバックストーリーPart2

院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。 前回までのストーリーPart1はこちら ⬇️⬇️⬇️  ユーモアで笑わせて人が喜ぶ…

野球で経験した栄光と挫折。チームプレーの重要性を学び社会人の道へ

小学校時代はスイミングや公文式など習い事をするも、あまり長続きはしませんでした。

私の二つ年下の弟が先に地元の少年野球チームに所属して野球をしており、練習など見学しているうちに「楽しそうだなぁ」と思い始めて体験会なども参加しました。体験会を通じてより野球がしたい気持ちが強くなり、「野球がしたい」と両親にその気持ちを伝えました。ところが今まで習い事が長続きしなかったこともあり、なかなか承諾が得られませんでした。

その後も何度も「野球をしたい。野球をさせてくれ。」と両親に頼み込んでようやく野球をやらせてもらえることになったのです。ただし、新しいグローブは買わずに父が昔使ってしたボロボロのグローブでやることと、バットもしばらくは買わないという条件ではじめることになりました。また、しばらくしたらすぐ辞めるのではないかと思っていたのでしょう。

地元の弱小チームで小学校5年生の2学期からはじめた野球でしたが、3学期になる頃はレギュラーとなり、試合に出るようになりました。初めての試合出場ではガチガチに緊張して打てないし、エラーはするしで散々な結果となりました。この時とても悔しかったので、今までよりももっと練習に打ち込むようになりました。そして6年生の夏あたりからピッチャーで打順もクリーンナップを任されるようになったのです。

しかし、当時のチームとしては全然公式戦で勝利をあげることができずに初戦敗退ばかりでした。ピッチャーとして責任を感じていましたし、「試合に勝てるようにもっと練習しないと。」と夜暗くなっても街灯をつけて壁に向かって投げ込みをしたり、バッティング練習を続けました。母親から「もうご飯だから練習やめなさい。」と言われることも度々あるほど練習に打ち込んでいました。

これまで試合後はいつも監督に怒られていましたし、毎回負けてばかりでは楽しくも、面白くもありません。「他のチームのような勝った時の感覚を味わってみたいなぁ」といつも思っていて、羨ましくて仕方がありませんでした。

小学6年生の秋の公式戦の近づいてきた時に練習試合がありました。相手も同じ弱小チームではありましたが久しぶりに勝利することができたのです。「ピッチャーとしてしっかり抑えることもできたし、バッティングも良かった。練習の成果が出てきてる。次の試合はいけるかも」と期待が高まりました。そして秋の公式戦を迎えることになります。

まさかの初戦コールド負けの大敗。「今まで頑張ってきた練習はなんだったんだろう」と途方に暮れました。試合後、監督からは「お前は練習のための練習をいつもしているのか?本番では全然だめだな!」と怒鳴られて、きつい反省会となりました。とても悔しかったのでその後、今まで以上に投げ込みもして練習を頑張り続けました。しかし、その努力も実らずにこの後、公式戦で勝利することはできないまま卒業することになったのです。

中学生になると、小学校卒業前に声をかけていただいたボーイズリーグの硬式少年野球チームに入部することになりました。ボーイズリーグとは、「公益財団法人 日本少年野球連盟」の愛称で、主に小学部・中学部の少年少女を対象とした硬式野球の全国組織です。入部させていただいたチームは私が中学2年生の時に全国大会も出場したような強豪チームでした。

入部したての時、実は小学生時代に投げ込みしすぎた影響で肘を痛めていました。スタートから出遅れてしまうことにすごく焦りを感じることになります。この時、鍼灸師である父の鍼治療を受けながら走り込みなどの基礎トレーニングを続けて、比較的早めに完治することができたのです。この時は「なんか治療ってすごいな~」程度にしか思っていなかったのですが、とにかくそこまで出遅れることもなかったので安心しました。

ところが安心したのも束の間、その後しばらくして練習中にヘッドスライディングした際に、ベースに思いっきり突き指する形になって、ものすごい激痛が走りました。あまりの痛みに病院に行くと指の骨にヒビが入っているとの診断を受けたのです。せっかく肘が良くなったのに、このケガはショックでした。完治まで時間もかかると思ったし、完全に出遅れてしまうなと思ったからです。

この頃は気持ちまで塞ぎ込みがちになり、チームメイトとの関係も少しギクシャクしてしまっていました。自分からコミュニケーションをとろうともせずに、チームから浮いた存在になっていました。

みんなが生き生きと練習に打ち込んでいる姿を見ていると羨ましくて仕方ありませんでした。ケガをしてしまったのは自業自得でしたが、そのような状態で過ごした約1ヶ月は当時の私にとって、とてつもなく長くつらい時間に感じたのです。

それから月日が経ち、上級生が引退して中学2年の夏から自分たちの世代がメインのチームとなり始動することになりました。小学生の頃は野球を始めてすぐレギュラーになり、卒業するまでレギュラーでいることは当たり前と思っていましたが、このチームでは補欠になってしまうことも度々ありました。

初めて補欠になった時は正直ショックでへこみました。しかし、小学生時代のチームメイトで補欠になっていたメンバーの気持ちもこの時知ることになります。

「ベンチから一生懸命に応援してくれていたよなぁ」と当時を思い出し、気持ちを切り替えて裏でしっかり支えることにしました。小学生の頃にはあまり意識していなかった「チームみんなで戦うんだ」という意識が芽生えてきたのです。

しっかり声出して応援し、選手への声掛け、ベンチ周辺の整理整頓など積極的に行いました。たとえ試合に出れなくても、チームが勝てたらやはり嬉しいのです。小学生時代は全然試合に勝てていませんでしたから、勝った時の喜びに相当飢えていたこともあったのでしょう。チームプレーの重要性をこの時身をもって学ぶことができた時でした。

中学3年生の夏になり、いよいよ最後の大会が近づいてきました。レギュラーになったり補欠になったりを繰り返してきましたが、「最後の大会はなんとかレギュラーで出場したい」と強い気持ちを持って練習に取り組んできました。基礎トレーニングもしっかり積んできたので、学校の体力測定も1年間で大幅に記録も伸びていました。最後の大会はレギュラーで行けるのではないかという手応えもありました。

そして、大会当日。最後の大会のスターティングメンバーが発表されました。私の名前はありませんでした。しかしすぐに気持ちを切り替えて、「チーム全員で試合に臨む」ことに集中しました。

試合は最終回に突入し1-0で負けている状況でランナーなし、2アウトになりました。この緊迫した場面、ここでまさかの私に代打を告げられました。「おい、児玉。あとは頼んだぞ。」と監督に言葉をかけていただき打席に立ちました。とてつもない緊張感でしたがストレートが来たらしっかり振り抜こうと決めていました。私の中学3年間の集大成は代打でライト前のポテンヒットでした。しかし、ここで試合の流れが少し変わります。ここから連打が続き、ツーアウト満塁になりました。一打出たら逆転もあり得る場面です。ところがあと一歩届かず負けてしまいました。

試合後に監督から最初で最後の褒め言葉をいただきました。「お前は補欠になっても腐らずに真面目にコツコツとチームを支えてくれていたのはわかっていた。だから最後はお前はやってくれると信じていたからな。試合には負けたけど、思ってた通り打ってくれた。ポテンでもヒットはヒット。お前の一打で流れが変わったんだぞ」という監督からのお言葉に涙を流さずにはいられませんでした。

この時の経験が、ホームランを打つことよりも「目の前の患者さんの日常が、少しでも喜びに満ちたものになるように」といった、私の治療の方針を定めるできごとになるなんて思いもしませんでした。

院長のバックストーリーPart4に続く

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坂元台整骨院(鹿児島市)院長のバックストーリーPart4

院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。 前回までのストーリーPart3はこちら ⬇️⬇️⬇️ サラリーマンになるも、父の背中を…

(監修 柔道整復師 児玉寛武)