院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。

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坂元台整骨院(鹿児島市)院長のバックストーリーPart3

院長の生い立ち、治療家を目指したきっかけ、現在にいたるまでを書かせていただきました。 前回までのストーリーPart2はこちら ⬇️⬇️⬇️ 野球で経験した栄光と挫折。チーム…

サラリーマンになるも、父の背中を追いかけて治療家の道に進むと決めた30歳の私

高校時代の私はボクシングに打ち込みながら、学業と両立させた生活を3年間送りました。まわりの生徒のほとんどが大学に進学する学校にいたこともあり、私も大学受験をして福岡の大学に進学することになりました。

アルバイトや学業に励む日々が続きましたが、月日が経ち大学3年生になり、進路を考えなければならない時期に差し掛かりました。将来的には何かの仕事で独立してやっていきたいという思いはこの頃からあったものの、具体的なことは何も決まっておりませんでしたし、会社に就職して社会人としての経験を積むことを選択しました。

当時は超就職氷河期で、就職活動は大変であることは周りから聞いていたので早めに準備に取り掛かりました。

自己分析からはじめて、業界・企業研究、履歴書・エントリーシートの準備、面接対策、筆記試験・適性検査の対策などやることはとても多く大変でした。たくさんの企業説明会に参加して、自分の受けたい企業を選択して入社試験に臨んでいきました。

大学4年生になると本格的に入社試験がはじまり出しました。「希望した会社に内定をいただけるといいけどなぁ」と希望と不安とドキドキした緊張感が入り混じりながら、入社試験を受け続けました。4月から6月にかけて15社ほどは受けたと思います。

結果は全て不採用。自分を否定され続けられたような気持ちになり、さすがにショックでした。周りの友人たちも続々と内定が決まり出していて、かなり焦る気持ちも出てきました。友人の内定のお祝いでの飲み会に参加した時には、友人をとても羨ましく思い、そしてなんだか自分が惨めな気持ちになってしまいつらい飲み会となってしまいました。

7月に入り気持ちを切り替えて就職活動を継続しました。正直、夏場の暑い時期にスーツを着て就職活動を続けることは体力的にもしんどかったですが、若さで乗り切りました。そして、ついに入社試験20社目で最終面接までこぎつけた会社が出てきました。「ここは、なんとしても内定までいただきたい!」強い気持ちで最終面接に臨みました。そして面接終了後、「手応えとしてはそこまで悪くはなかった。いけるかも!」と期待できる内容でした。

約1週間後に結果の通知が自宅に届き、心臓をバクバク鳴らしながら封筒を開けました。「選考結果のお知らせ。先日は多数の会社の中より弊社求人にご応募いただき、ありがとうございました。誠に遺憾ではございますが、今般選考を重ねた結果、貴殿のご希望に沿いかねるという結論を下さざるを得なくなりました。」しばらく自宅で呆然と立ち尽くしたまま、静かな時間が流れました。「また一から出直しか。いったい、いつになったら就職活動は終わるのだろう。このままでは多分、内定できないまま卒業することになるかもしれない」と、とてつもない不安が襲ってきました。

今回の不採用を機に、根本的に対策を練り直すことにしました。もう一度自己分析からやり直して、自分に合った業界・仕事の絞り込みをしました。そして当時「面接の達人」などのマニュアル本がすごく学生の間で流行しており、私もそのような本で得た知識をもとに練習して面接に臨んでいましたがそれをやめることにしました。「自分の経験をもとに、自分の言葉で話そう」そう決めて入社試験に取り組むように方向転換したのです。

その後もなかなか内定をいたたけませんでしたが、自分の言葉で面接に臨んだ方が明らかにしっくりくるのが分かりました。自分の言葉で、本音で面接に臨むようになり自分の面接スタイルが確立されてきた頃、最終3次面接まできた会社がありました。以前のように気合を入れて意気込むことなく、「自分の経験をもとに、自分の言葉で正直に話す」ことを心がけました。

もう8月に入り、就職活動も終了している学生も多い時期になってきましたし、希望の会社に内定もらえずにあえて就職浪人という形をとる学生もおりました。

自分が受けてきた入社試験も30社ほどになり、焦る気持ちは当然ありましたし、こんなに長引いてしまうとは思ってもいませんでした。

そうこうしているうちに、この間受けた最終面接の結果の通知が届きました。心を無にして封筒を開きます。「拝啓、時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、この度は弊社採用試験にご応募いただきまして、誠にありがとうございました。選考の結果、貴殿を採用することに決定致しましたので、ご通知申し上げます。」この時正直、喜びの気持ちよりも、ホッとした安堵感でいっぱいでした。最終的に内定はこの会社と、もう一社からいただきましたがこちらの会社の方にお世話になることに決めたのです。

無事に大学を卒業して、4月より社会人生活がスタートしました。

不安と希望を胸に入社式を迎えて、本社研修後、鹿児島の方に配属となりました。

職場はかなり忙しい職場で、大変ではありましたがやりがいもあり、仕事に没頭するようになりました。仕事は各部署で分かれており、港での荷物の積み下ろしの管理、輸出入の手続き・調整、倉庫での保管・検品・品質管理、トラック・船・鉄道・飛行機で運ぶなどの輸送関係の管理、大型貨物の輸送・据付などの仕事がありました。私は輸送関係を管理する部署に配属されました。

社会人2年目になり、仕事も多少慣れてきた頃に大きなミスを仕事でしてしまうことになります。数万トンクラスの飼料の材料を積んだ輸入船の水切り(船から積載貨物を陸揚げすること)に用意するダンプカーが繁忙期と重なってしまい、どうしても足りないことであたふたしてしまいました。水切りは決められた期間内にスピーディに済ませないと様々な損失が出てしまいます。上司の方からは「なんでもっと早く相談しなかったんだ!脳みそ腐ってんのか?お前は」と厳しく叱責されてかなり落ち込みました。その後、上司が他の輸送会社にお願いし、ダンプカーを借りてなんとか台数を揃えることができましたが、しばらくは上司も口も聞いてくれずに無視される日々が続きました。毎日胃の痛い思いで出社する日々でしたが、これを機に問題が起きそうな時はなるべく早く上司に相談するように心がけるようになりました。

20代後半から、仕事と並行して司法書士の資格取得の勉強をするようになりました。司法書士とは役所や裁判所に出す大事な法律書類を、代わりに正確に作ってくれる専門家のお仕事です。当時、合格率2%台の超難関資格でしたがそれゆえに、資格者自体が少ないので、将来独立しても食べていけるのではないかという考えでの挑戦となりました。この時から独立志向は強く持っていました。

この頃から仕事と寝てる時以外の空いている時間の全てを勉強に費やしていました。休みの日は朝から夜まで10時間以上勉強していたと思います。車の運転中などの移動時間や、ご飯食べる時も条文の流れるカセットテープ聴きながら勉強してましたし、友人たちからの飲み会の誘いなども全て断って勉強に打ち込んでいました。睡眠中の夢の中でもしょっちゅう勉強してる夢を見ていたほどです。

このような生活を3年ほど続けた3回目の試験でようやく択一試験はクリアできるようになり、書式がわずかに3点足りず不合格。自分のとった合計点は合格点数より高かったのですが、午前択一・午後択一・書式いずれか一つでも基準点(足切り点)をクリアできなければそれだけで不合格という仕組みですので、勉強のバランスがとても大事な試験になります。

満を持して臨んだ4回目の試験。この時は直前の模擬試験の結果も全国の上位成績優秀者に名前が出るようにもなり、正直いけるだろうと自信もかなりありました。択一は去年に引き続きクリアしていましたが、書式で普段ではありえないような凡ミスをしていたことが発覚。結局これが大きく減点に響いてしまい、基準点に引っ掛かって不合格となっていました。この時、正直まる3日くらいほとんどショックで眠れませんでした。

翌年30歳という年齢になりました。もう次の試験を最後にしようと心に決めました。自分でも体がおかしくなってきていることにも気づいていましたし、このような試験の沼にハマり込み、最終的に廃人のようになってしまった人の話もよく聞いていたこともあります。

最後の試験の1週間前から横を向くことができないくらいの激しく締め付けられるような頭痛が出てきて、病院に行きましたが「たぶん、試験のプレッシャーからくる精神的なもだろう」と言われて特に治療のようなものもありませんでした。

試験当日も激しい頭痛を堪えながら試験に臨みました。しかし、午前の択一の時から手の震えがすごくて、マークシートにマークするのも精一杯でした。そして午後の択一も終わり、いつも泣かされてきた書式に取り組みだしました。手の震えが自分でも驚くほど悪化して、何度も手をストレッチしながら鉛筆を握り変えてなんとか書き終えました。本当に自分の手ではないような感覚でした。

最後と決めて臨んだ5回目の試験。合格発表の日、私の受験番号はどこを探しても見当たりませんでした。自己採点してみると、書式は今までになく完璧な状態でできていました。まさかの午前択一でわずかに基準点に達していなかったのです。今にして思うと、前回の試験の失敗で完全にこの試験に対してトラウマになってしまい、精神的にやられてしまっていたのだと思います。

今思い出しても、二度とできないと心底思えるハードな生活が長引いてしまったことは、私の心と体を着実に蝕んでいたのです。

この当時、日常生活の中で突然息をすることができないくらい心臓に締め付けられるような痛みが走ることがたまにありました。めまいのようなふらつく感じは常にありましたし、まぶたの痙攣が酷くなりすぎてしばらく目が開けなくなってしまうこともしばしばあり、原因不明の喉の痛みに苦しむこともありました。肩こりや頭痛もひどかったですし、長時間勉強して立ち上がろうとした際に腰に激痛が走り、動けなくなってしまったこともありました。「このままでは本当に自分が潰れてしまうかもしれない」と本気で自分のことが心配になりましたので、普段治療など頼むことなどなかった鍼灸師である父に、学生時代肘の治療でお世話になった以来の治療を休みの日にお願いすることにしました。私の父は実家の一室を治療室に改装して、鍼灸院を長年営んでいます。

治療が終わった後に今までにない身体の変化を体感することになります。「何だこれは?すげー!」思わず声が出てしまいました。それと同時に、子供の頃「楽になりました」「ありがとうございました」と笑顔で実家の治療室から帰っていく患者さんを見ていた記憶が、この時走馬灯のようによみがえりました。

自分の身体が本当にしんどくてたまらなくなった時に、初めて実家に来院していた患者さんの気持ちが体感できたのです。そして、治療家という仕事の素晴らしさを身をもって体感することができました。

その後も治療を続けていくと、どんどん身体の調子が良くなっていきました。そのような経験をしているうちに「司法書士には縁がなかったけど、治療家という仕事で生きていけたら最高だよなぁ」という思いが日に日に増していきました。

その時30歳、独身。治療家の道にチャレンジするなら今しかないんじゃないか?

悩みに悩み抜いた結果、「チャレンジしないで後々後悔する人生は歩みたくない」との気持ちが勝り、まさかの父と同じ脱サラしてからの治療家の道に進むことになったのです。

この時の自分自身のつらかった経験が、「患者さんの悩みに共感し、寄り添うことを大切にする」という治療院をかたち作っていくなんて想像もしていませんでした。

院長のバックストーリーPart5に続く

(監修 柔道整復師 児玉寛武)